文・絵 森 哲子
わたしの祖母は湯葉が好きで、祖母が作るご馳走の煮物や吸い物には、結んだ湯葉や渦巻き状の湯葉が入っていることが多かった。4、5才頃のわたしにとって、湯葉は味も素っ気もない平べったいひもを食べるようなもので、残しては叱られていた。家長であり厳しいおばあちゃんに、おいしくないなどと言うのは以ての外で、叱られまいとこっそり母の茶碗に入れていたものだ。後年、大人になって母から、わが家が太平洋戦争の終戦前までは湯葉屋をやっていた事を聞き、あの味気ない物体が湯葉であったことが解明し、祖母が湯葉を好む理由も分かった気がした。
すすきの変遷は、周知のように開拓使時代の遊郭から一大歓楽街へ、そして緊迫した空気に包まれた太平洋戦争から終戦後のアメリカ進駐軍の増加などによる界隈の大きな変化があった。祖母の親類の数人が明治の終わり頃の同時期に、福井県から北海道に移住をしている。10人兄妹の長女だった祖母は、気丈な人で夫が亡くなった後も商いを守っていた。料亭や割烹をお客さんとしていた商いにも変化の波が襲い、太平洋戦争の緊迫の中、贅沢品とされた湯葉屋には原料である大豆の配給がぱったり途絶えたそうだ。当然、湯葉づくりはできないわけで、跡取りの息子もいつ徴兵されるかしれない、一家にとって宙ぶらりんのつらい時代だったのだろう。戦後、湯葉屋は復活せず父親は湯葉屋時代の伝手でサラリーマン生活を十年ほど送ることになる。
兄姉たちの話によると、湯葉屋は当時の住まいの裏手で都通り側にあり、廃業に伴い割烹に貸していた国道側の家屋に引っ越したそうだ。その際に家のほぼ中央部を壁で仕切り、裏手側を置屋さんに貸すことにしたらしい。この話で、台所にあった妙に大きな納戸、階段と廊下の位置と形の不思議感に納得がいった。
祖母が完全に隠居してからは、食卓に湯葉が上がることもなくなり、1998年に京都駅ビル視察を兼ねた旅行で昼食に湯葉を食べたのは数十年ぶりのことだった。現在は自然食として湯葉を出すお店も多く、わたしも生湯葉は酒の肴に食べるの好きだが、干し湯葉は今もちょっと苦手だ。